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私が物心ついたとき、周りの大人はみんな仕事をしていました。父は設計士、母と祖母が教員、祖父は小売業を営んでいました。
なので、幼稚園に入るまではいつも3歳下の弟と遊んでいました。
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6歳になった頃、近所に、かっちゃんという背が高くて足が速くて勉強もできる同級生の友だちができました。
それまで友だちらしい友だちがいなかった私にとって、かっちゃんと遊べることは本当に楽しいことでした。
かっちゃんは小学2年のとき、本来は4年生からしか入れない野球チームに入りました。それぐらい運動神経が良かったのです。
「かっちゃんが野球をやるならボクもやりたい」
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 かっちゃんと一緒 |
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私もそう希望したのですが、運動神経が鈍いため、入れてもらえませんでした。
運動会の徒競走もマラソン大会も、いつもビリでしたから無理もありませんね。
幼いながらに自分でも足が遅いこと、運動神経が鈍いことはわかっていましたから、「しょうがない。ボクはかっちゃんみたいにはなれないや」とあきらめていたように思います。
あるとき、ものすごく気合いの入った女の先生が担任になりました。キレイでしたが、今では考えられないような熱血先生です。
運動会の合同練習の朝、先生は突然、いいました。
「私は男子で運動神経の鈍い子は嫌いです。徒競走でビリになったら許しません」
なんだか自分のことを言われているようでイヤな予感がしたものです。
案の定、その予感は的中しました。
合同練習は午前中で終わり、給食の時間です。先生は静かに教室に入ってきて言いました。
「つかさ、お前はなんでそんなに足が遅いの! 先生は情けないです。みんな、男の子のクセにこんなに運動ができない子とは、遊んではいけません!」
私は耳を疑いました。
教室はシーンと静まりかえったように思います。
さすがに傷つきました。
普通の小学生なら泣いていたことでしょう。
でも、私は幼い頃から親が忙しかったため、あまり甘えたことがありません。ケンカして泣いて帰っても慰めてはもらえなかったので、次第に感情を外に出すことができなくなっていました。
このときも、こみあげてくる涙をグッと抑えていました。
でも、とてもとても淋しかったし、胸が痛かったです。先生の言葉など関係なく変わらず遊んでくれた友だちといても、楽しくはありませんでした。
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「足が速くなりたい。かっちゃんみたいに!」
私は野球チームに入れてもらいました。練習は休まずに毎日、毎日行きました。
野球が上手くなりたかったわけではありません。ただ、足が速くなりたい。その一心だったのです。
5年生になり、体育の時間に50メートル走のタイムを計りました。
「北屋敷、ずいぶん速くなったなぁ。7・9秒だ。学年でも5番以内に入ってるぞ」
そのときの気持ちは今でもはっきり覚えています。
「やったぁ」とか「うれしい」とか「ざまぁみろ」とかではありません。
速く走れた自分が不思議でボォーっとしていました。あの先生への悔しい思いなんて、全然思い出しませんでした。
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 足が速くなった頃の私 (隣は弟) |
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野球ではキャッチャーで4番をまかされるようになりました。
あの運動オンチだった私が、「かっちゃん」とバッテリーを組むまでになれたのです。
さらに、チーム発足以来初となる市大会優勝まで成し遂げました。
チーム創立6年目の春のことです。
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 4番キャッチャーの私 |
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大学を卒業した年、同窓会で先生と再会しました。
思い切って当時のことを話すと、
「先生は、つかさはやればできるとわかっていました。でも、そんなきついこと言ったかしら・・・」
その言葉を聞いたとき、さすがに少し拍子抜けしましたが・・・(苦笑)
でも、もしも、あの先生がいなかったら・・・
現在の自分はいなかったでしょう。
だから、私はあの先生に大きな感謝の気持ちがあるのです。
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大学時代にはいろいろなアルバイトを経験しました。なかでも性に合ったのが家庭教師です。
思えば、人と関わる仕事が向いていたのかもしれません。
そのうち雇い主である派遣会社の社長から「家庭教師より家庭教師を派遣したり、教材を売る仕事をしてみないか。そのほうが稼げるよ」といわれました。
家庭教師に少し飽きていた私は、その誘いを受けることにしました。
本音をいうと「稼げるよ」の一言に惹かれたのですが、営業という仕事に興味を覚えたのです。
初めての営業です。会社から渡される何千、何万という見込み客リストをもとに電話でアポイントを取って訪問し、教材を売っていきます。
成績は上々でした。ちょうどバブル景気の頃というのもありましたが、1セット25万円の教材が飛ぶように売れました。
同僚には、私よりも社会経験のある人や、優秀なアルバイト学生もいましたが、成績で負けることはほとんどありませんでした。
大学4年になり、就職活動がはじまると、「一番高いものを売る」と決めて、ハウスメーカーを希望しました。
何社か面接に行きましたが、正直落とされるなんて、まったく思っていませんでした。
私の営業キャリアを話すと面接官は一様に感心したような表情を浮かべました。
ときには面接の段階で「合格。入社式には新入社員代表のあいさつをやってよ」といわれたりもしました。
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鳴り物入りでの入社でした。朝8時に出社し、夜の12時、1時までがむしゃらに働いていました。
配属された営業所の所長もたたき上げの営業マンで、いろいろなアドバイスをしてくれましたし、先輩たちもみな温かかった・・・
でも、成績はさっぱり。家はまったく売れませんでした。
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 ○サワホーム新人営業マン |
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自分より下だと思っていた同期入社の面々が4棟、5棟と数字を伸ばすなか、私は半分以下の成績をさまよっていました。
見込み客は毎月増えていましたから、仕事の仕方はさほど間違っていなかったように思います。ただ、契約にはいたりませんでした。
「ごめんなさい、今回はどうしても予算が合わないの」
「私は北屋敷くんのところでいいんだけれど、主人がね・・・」
「うちはダメだけど、北屋敷くんは良い人だから友だちを紹介するわ」
お客さまは優しい言葉をかけてくれるのですが、そのぶん余計に情けなかったし、悔しい思いをしました。
「どうして自分は選ばれないんだろう?」
理由がわからずに自信だけがむしり取られていきました。出口はまったく見つかりませんでした。
結局、私は2年と持たずに会社を辞めました。
いま振り返れば、仕事をなめていたし、社会をなめていたのだと思います。だれのせいでもない、自業自得の失敗だったのです。
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会社を辞め、ふさぎこんでいた私を見かねて、父がある会社の社長を紹介してくれました。私はその社長に自分の気持ちを洗いざらい全部打ち明けました。
教材は売れたのに家は売れなかったこと、仕事に、そして自分の未来に希望を感じられず絶望していること、自分には営業は向いていないのではないか・・・
社長は私の話を聞き終わると、ゆっくりと話してくれました。
「つかさくんには営業のセンスがあるよ。よーく思い出してごらん。教材を売っていたときと家を売っていたときの違いを。必ず何かあるはずだから。営業はね、自分の人柄を通して、お客さんの問題を解決する仕事だよ」
そのとき、頭のなかでバラバラだったパズルが一つひとつつながっていく気がしました。
私は間違っていたのです。
教材販売時代、私は家庭教師の経験をもとに、お母さんの気持ちや不安が手に取るようにわかりました。
教材のメリットよりも、受験のためだけではない「楽しんで勉強する習慣の大切さ」を伝えていたように思います。
家は一生に一度の買い物です。そんな大切な家づくりのパートナーとして、私には「お客様の問題を解決する」という姿勢と「お客様の利益を守る」という知識が欠けていたのです。
社長の話を聞き終えたとき、私は人目もはばからず泣いていました。まったく先の見えなかった人生に勇気とやる気と見通しが見えたような気がしました。
1ヵ月後、私はその社長の会社に入れてもらいました。
さながら押しかけ入社みたいなものでしたが、それから先は水をえた魚のように仕事に没頭しました。
営業成績は担当エリアで倍になり、新規マーケットの開拓や新商品の普及にも、ずいぶん貢献できたと思います。
この会社で過ごした5年間、毎日が本当に充実した日々でした。
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それから早いもので、起業してからすでに8年が経とうとしています。
これまで、つらかったことも、苦しかったことも、いろんなことがありました。
いちばん印象に残っているのは、ある方の紹介で、日光金谷ホテル(日本最古のクラシックホテル)の全面改修工事を請け負ったときです。
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「日本一のクラシックホテルをリフォームするんだ!」
仕事がとれた喜びよりも、そうした誇りを感じられることがうれしかったのです。
雪の降り積もる1月の突貫工事。工期も短く、徹夜つづきでヘトヘトになりながらも、少ない人数で、みんなよくがんばってくれたと思います。
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 日光金谷ホテル |
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こうした経験を通して、私は、仕事とは一人でするものではなく、よい仲間と協力しあってするものだと、改めて思うようになりました。
共通の目的をもつ仲間の大切さ。
そこから生み出される結束力。
社長が上からものをいって社員が従うという上下の関係ではなく、またお客さまと業者という一方通行の関係でもなく、お客さまのご家族全員、営業、職人のすべてが横に手をつないだチームワーク。
それこそが、理想の関係だと思うのです。
この業界の中には、そうしたことを理解しないまま、ただお客さまの言いなりになってしまう営業マンもたくさんいます。
お客さまの「○○したい」という言葉の裏側にある本当に要望を考えようともせず、「お客さんがこういったから」の一言で済ませてしまう・・・
たとえムダなお金がかかるとわかっていても、また本当の解決策は他にあるとわかっていても、知識不足・やる気不足のために、お客さまのいいなりになってしまう・・・
それでは、せっかくのリフォームが、決して楽しいものではなくなってしまいますよね。
私は、リフォーム工事を単なる生活空間の改善とは考えていません。
リフォームすることで、安心して住める我が家をつくり、不便さを解消し、快適な生活を提供する。
それはごく当たり前のことであって、それだけでは「心から、やってよかった! と思えるリフォーム工事」にはならない気がしています。
リフォームすることで、ご家族のみなさんでこれからの人生や暮らし方について考えていただきたい。
家族の大切さやありがたさを再認識して、より一層、家族の絆を深めていただくきっかけにしていただきたい。
そうした家族の深い部分を見つめなおすためのアドバイザーとして、私の経験を一人でも多くの方に伝えていきたいと考えております。
リフォーム工事は本来、とても楽しいものです。
家族みんなが笑顔になる、すばらしいものです。
どうか、あきらめたり、業者まかせにしたりせず、積極的にリフォームに取り組み、快適な我が家を手に入れてください。
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株式会社 ミタカ工房
代表取締役 北屋敷 司
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追伸、私はこの群馬県でNO1のリフォーム会社になりたいと考えています。
私の目指すのNO1は、売り上げやスタッフの数ではなく、「リフォームにもっとも情熱のある会社としてNO1」であり、お客様から支持され続けるリフォーム会社NO1です。
そのためには“日々勉強!!”です。より良い勉強を重ねて、皆様との良きパートナーづくりをがんばっていきます。今後ともあたたかいご指導賜りますよう、お願い申し上げます。
大変長くなりましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
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